電話でのお問い合わせは0895-22-4500
〒798-0031 愛媛県宇和島市栄町港2丁目600番地15
※運航案内(時刻表・運賃表)はこちらへ。
名称 | 所在地 | 電話 | 料金 |
中田民宿 | 戸島 | 64-0142 | 6,000円 |
民宿片岡 | 日振島・能登 | 65-0230 | 7,000円 |
磯乃屋旅館 | 日振島・明海 | 65-0301 | 8,000円 7,500円(2人〜) 素泊り 4,000円 |
民宿日振島 | 日振島・喜路 | 65-0234 | 6,000円 |
島民宿つわぶき | 日振島・能登 | 65-0035 | 7,000円 |
※平成30年4月現在の情報です。
※市外局番は(0895)です。
※全宿泊所、1泊2食付料金です。
※全宿泊所、事前要予約、盆・正月は休業です。
日振島は、宇和島の西28キロにある人口約500人、面積4.00平方キロの島です。
東国の平将門に呼応して兵を挙げた藤原純友の本拠地としても有名な島です。喜路、明海、能登の3つの地区があり、海水浴場、キャンプ場があります。また、磯釣りのメッカとしても全国的に知られています。
●藤原純友の伝説
この島は今からおよそ千年の昔には、天下を驚かせた純友反乱の舞台でした。もともと純友は朝廷から伊予に派遣された地方官として、ナンバー3のポストにありました。しかし、任期が終わっても京には帰らず、自ら海賊大将軍を名乗って、ときの中央政府と対峙しました。純友は部下の裏切りで捕らえられ処刑されましたが、貴族中心の律令社会から武士中心の封建社会へ移行していく先鞭となりました。いまでも地元の人はこの海賊大将軍の名を敬意を込めて「純友さま」と呼んでいます。
なお、同じ頃、関東で起こった平将門の反乱と共に歴史上これを「承平、天慶の乱」といいます。
●日振島の名の由来
日振の名は遠く神武天皇がご当世の昔、暗夜に早磯の瀬戸、今で言う豊予海峡を通過する際、航路を見失っていた時、遥か向こうに火の振るのを発見し、これを目当てに無事にこの島に着いたといわれ、その事から火を振る島ということで、火振島→日振島となったといわれています。日振島の西側は断崖ですが東側の湾頭には喜路、明海、能登の三つの地区があります。その昔、神功(じんぐう)皇后が、暴風雨にあい航路を見失い豊後水道からこの島の湾に辿り着きました。その際、「帰り道」に寄った湾であるから「喜路」と名付け、その後、喜路から漕ぎ出した船が、明け方に着いたことから、その湾を、「明け海」と書いて「明海」と名付けられました。そして、いよいよ都に登る海路に、また一つの湾に入りました。これが「都に登る」という意味で「能登」と名付けられたと伝えられています。
http://www.uwajima.org/course/index10.html
宇和島市観光ガイドWEBSITE・宇和島市観光物産協会
戸島は、宇和島の西20キロにある人口約500人、面積2.81平方キロの島です。
全島が足摺宇和海国立公園に含まれており、戦国武将でキリシタン大名でもあった「一条兼定」の墓所があることでも知られています。
●戦国武将「一条兼定」の眠る地
キリシタン大名としても知られる一条兼定の墓所。1574年、四国制覇に意欲を燃やす土佐の長曾我部氏に敗れ、この島に隠れたが11年後に没し、龍集寺境内の墓に眠っています。島の人々は今も「一条さま」、「宮様」と崇敬しています。
嘉島は、宇和島の西20キロにある人口約200人、面積0.54平方キロの島です。
島の春日神社の縁起によると、勧請は景雲3年(769年)といわれています。昔は「加島」と呼ばれていましたが戸数の増加に喜んで嘉島となったとされています。
蒋淵地区は、宇和島市三浦半島の最先端にある地区です。
http://www.komo-net.com/
蒋淵ネットワーク!・こもねっと
http://www.komo-net.com/komoterrace/
環境共生型六次産業施設・こもてらす